2022-05-15 生きる理由

一年前のこの時期、僕のとある知り合いが病気でこの世に離れることになった。ネットだけの知り合いだが、僕みたいな引きこもりにとって大事な友達の一人だった。彼女は普段体が弱い人だと思われていたけど、いきなりこんなことになるって誰も思わなかった。平日話している同じ年の人がいきなりもう目覚められないなんて、僕にとってそれは初めてだった。

突然のことですが、当時の僕はカナダに留学する準備の色々で忙しいので、あんまり悲しさを感じていなかった。たぶん、悲しさを処理する脳力がなかったから、考えることを避けていただけ。ただ、僕の友人が一人減った事実に避けなくて、心の何処かで空っぽだった。一年後の今、カナダに落ち着く住んでいる僕は彼女を思い出し、ものすごく強い悲しさに襲われている。当時の感じなかった分の悲しさも今一気に来たみたいに。

もう一年か。そう思っている僕は、久しぶりに深く思考に沈んだ。もしかして明日、僕も彼女みたいに覚められなかったら、僕の友達や親族の間にどんなことになるんでしょう。僕も素晴らしい人と覚えられるのか、それとも嫌がる記憶ばっかり残るのか。そして一年後、これみたいな僕を追悼する文章を書く人もいるんですか、それとも一年間で忘れられるのか。

「僕はなんのために生きてるだろう」のようなベタな問題も考えた。理想とか夢とか、叶う前死んだら全部水の泡になる。それを生きる理由にしたら、一年前の旅立った彼女の人生も無駄でしょう。しかし、彼女の人生は決して無駄じゃないと信じている。彼女自身がいなくなっても、彼女がいるの日々はまだ僕たちの記憶に鮮明に生きている。彼女はみんなを笑わせたり、慰めたり、そして自信を立てたり、そんな思い出は数え切れないほど多いだった。僕は詳しくしれないですが、そんなに優しい彼女に救われた人もきっとあると思う。これは全部、彼女の生きる証でしょう。

「生きる証」っか。漫画みたいな言葉も僕は書いた。だが、僕の生きる証は何でしょうか。優しくないし、人を慰めることも下手だし、人を傷つく思い出が楽しい思い出より多いかもしれない。それより、どんな「生きる証」を残しても、消え去る日がいつか来るでしょう。彼女の生きる証は今僕たちの記憶に残っているけど、僕たちも不老不死ではないのでいつかこの世から旅立つ。その時、この世に残っている「生きる証」もだんだん消えるでしょう。それで、彼女の人生が無駄じゃないかどうかも僕たちの生きる限りですか。もちろん、有名人になったら、「生きる証」がこれより何倍も長く残れる。だが、書籍や文化でも滅ぼすことがある。そんな証も永遠ではないでしょう。

いろいろ考えた結果、全く結論ができなかった。どんな理想、夢、もしくは「生きる証」を追っても、きっといつか水の泡になる。生きることはそもそも自分の選択じゃないだから、本来は特に意味がないでしょう。生命に意味を付けるなんて、まるで人類の妄想だ。

どうせ死ぬことが怖いので、とりあえず生き続きましょうか。遅かれ早かれ彼女と再会する日が来るんでしょう。


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